Þe Hƿmanitī

The world began without knowledge, and without knowledge will it end.

自殺未遂、2019年9月13日、1回目


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*この記事は自殺を推奨・幇助するいかなるものでもありません。

 

前置き

自殺未遂をした。恋人にフラれて、あまりのショックから喚き散らし、旅先の福岡で突発的に死ぬことを考え始めて、夜に自殺を図った。服薬中に死ぬ気が薄くなり、致死量に達する前に服薬を止めて未遂になった。

ご存じの通り、自殺未遂というのはとてもありふれた話である。今更語らずとも、ツイッターやブログを見ればいつも誰かがどこかでやっている。では、今回の自分の自殺未遂には何か特筆すべき不幸や事件があったのかというと、何もない。ありふれた辛さに遭い、ありふれた心の動きをして、ありふれた自殺方法をとった。今自分がこの話を頑張って書いたところで、もっと上手な文章を書くことができ、かつもっと面白い経緯で自殺未遂をした人間が過去にはいくらでもいただろうから、人に何かのエンターテイメントを提供するという意味において全く価値はない。

じゃあなんで書くのか、というと、分からない。長文を書くことで何かその日に意味を持たせたかったのかもしれない。気持ちを整理したいのかもしれない。このブログを書くことで、フォロワーからいいねがほしいというのもあったかもしれない(や、それは実際かなりあるはずだ)。でも、定まった1つの理由はない。

 

元はと言えば、こんな風にグダグダと前置きを続けて、いつまでも本題に入れないような、意思が脆弱で前に突き進む力の無いところだ。そのくせして内省だけがやたら上手で、しかし、それをフィードバックして自分を良くする努力を行う力がないところ。そういった気力なく燻り続ける、燃えカスのような精神性が貫徹していて、あたかも自分のアイデンティティーのようにもなりつつあることが本当に嫌だった。嫌で、死にたかった。

身体は魂の監獄である、ということに気づいた(知った)のはだいぶ昔の話だが、その解放されるべき魂までもが取るに足りないということは、最近気づき始めたことである。

 

どうせ自殺の手段や客観的な経過を語っても、メンヘラの自殺未遂の過程に何一つ面白いことはないので割愛して、気持ちの変化だけを書こうと思う。恋人にフラれてその度に死ぬ死ぬ言っているメンヘラの感動的な語りは自分でも見飽きたし、見飽きた文章は書きたくない。まさかそこまで陳腐なパーソナリティーが、自分にも宿っているとは夢にも思ってもいなかったが。

 

 

心情

今まで自殺しようと考えたことは数万回とあったし、雑な未遂も5回はあったが、今回ほど強い気持ちで生死の境界を越えようと思ったことはなかった。それだけに今回初めて知ることになったのだが、自殺を決めた時の高揚感と緊張感はとてつもないものだった。

自分は情動の動きが少ない人間なので、胸が高鳴るとき、胸が熱くなるとき、といえば運動したときと薬物を摂取しすぎたときぐらいである。そんな人間にとって、自殺をしようと思考しただけで動悸が起きて、武者震いを起こし、同時に恐怖から冷や汗が吹き出るという経験は、それだけである意味の「喜び」だった。死を眼前に意識することはこんなに「喜ばしい」のかと、全身を興奮でブルブル震わせながらも驚いたことを覚えている。

 

意思をある程度固めた後、いざ致死量の薬物をドラッグストアで買い集めているときの気持ちは本当にごちゃごちゃとしていて、暗澹としていた。やはり死ぬのは怖い。引き返してもまあ人生はそこそこ開けているだろうし、楽しいことも苦しいこともそれなりにあるだろう。特に将来の見え方は歪んでおらず、自我の一部はずっと冷静に「別に死ななくてもいいじゃんね」と普通の答えを返していた。

でも、理性的に考えてこの先の展開を推測して、ここはこうしたほうがいいね、とか、俯瞰的に客観的に、求めてもいないのに勝手に自我がそんな合理的選択を選んでくるとかそういうのが、もう面倒くさくて仕方なかった。論どうこうでもないし、欲望からしてももちろん死にたくない。関係ない。おれは早く死にたい。おれは早く死にたい。ずっと、意思してもいない言葉を呟いて、それが自分を支配することを願っていた。

そのおかげか、欲しくもないし高くて買いたくもない致死量の薬物を、動きたがらない足を動かして、無事買い切ることができた。

 

21時ごろ福岡の繁華街のど真ん中にある公園に来たとき、そこには金曜夜の賑やかな群衆と風景があって、ここなら、苦しんだ末のバカみてえな死体がSNSでめちゃくちゃに共有されてめちゃくちゃにバカにされて、尊厳もクソもなく無意味に死ぬことができそうだと思った。さっそく勢いをつけてバカになるためにある程度服薬した。至極冷静だったので、引き返そうと思ったときのために後々脳機能に後遺症の出ない程度を考えて服薬した。

ツイッターでいろんな人からやめてと言われた。思ったより自分が他者に可視化されていることに驚いた。自分が承認されているという素朴な事実を意外にも確認してしまい、正直味を占めてしまいそうになった。またひとつ死にたくなくなったが、そのことが悔しくてもっと薬を飲んだ。それでもまだ致死量の1/3にも到達していなかったが。

 

致死量の半分に達するまでの薬を出し、飲み干そうとしたら、手が震えて喉に拒否された。恐れはもうほとんど諦めに近づいていた。ここでもやはり冷静だったので、自分の意思の脆弱さを まあこれでもよくやった方だよ と労ったりしていた。

その後、フラれた恋人から、人を通じて後日話し合おうと言われたのが決定打になって完全に気持ちがデフォルトになった。意思が急速にゼロに向かってしまい、どうせそうだろうとは分かっていたが、あまりにも虚しくて泣きたかった。しかし、情動が全然動かないので何も出てこなかった。無言でスマホを弄っていた。少し経つと、職質されないように無言でネカフェに向かった。道中、ラインで次の飲み会の計画を立てていた。早く死にたかった。

 

どうせ、これからも何回も自殺を意思するだろうが、どうせ何回でも心折れることが見え透いている。ブログに書いてみて改めて分かる初志の軽薄さ。腐った魂は自らを消し去る程度の潔さももつことが出来ない。十中八九、自分はこれからまあまあ楽しい人生を送って、何回も何回も死にたくなって、寿命が近づいたら生に縋りついて死ぬまで泣き喚くだろう。これはこれで、無様でいいものだ。